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2001年宇宙の旅をみました [2008年7月に観た映画]

『2001年宇宙の旅』
“2001: A SPACE ODYSSEY” (1968・アメリカ=イギリス) 2h19
製作・監督・脚本 : スタンリー・キューブリック
出演 : ケア・デュリア、ゲイリー・ロックウッド、ウィリアム・シルヴェスター

[カチンコ]本作の製作40周年及び監督生誕80周年という事で東劇でのリバイバル。
過去に2、3回観ているのですが、映画館で観るのは初めて。
銀座方面から東劇に近づくにつれ、看板に書かれている『2001年宇宙の旅』のタイトルの文字が段々と大きくなるのを見ていると、なにか気分が盛り上がってしまいました。
なかなか味わえない感覚でした。
本作の持つ、凡人には何だか分からないけどでも何だか凄い映画だ。というイメージが盛り上げさせるのかもしれません。

しかし盛り上がったのは良かったのですが、この日はあいにくの睡眠不足。
かなりまずいかなぁと思ったのですが、案の定終盤は睡魔との闘い。
インターミッション(休憩)が有ったのでラッキーと思ったのですが、何の役にも立ちませんでした。
そんな感じですが、とりあえず観て思った事を。

この物語は、「何故人類だけに文明が生まれたのか?」という疑問からのスタートだったのではないだろうか?
犬や猫、人類に近い猿に何故文明は生まれなかったのか?
それは人類が特別だったという事ではなく、何か地球外の別の力が働いて、それによるものだったのではないだろうか?
たまたま別の力が働いたその場にいたのが人類の祖先で、そこにアリクイがいたらアリクイに文明が生まれていた。

そんな発想が生まれて時は2001年へと大きくジャンプします。
人類に文明をもたらした地球外の別の力。それが存在したのならば文明が生まれて幾千年、行き詰まりを見せるどうしようもない人類を次のステージへと導いてくれるのではないか?

そして人類とその力が接触し、発動。

で、オチですが、「あのさぁ、随分と長い間君たち見てきたけどさぁ、どーしよーもないね。そんな君たちにはこれがお似合いさ。ほれ。」
と、別の力が導いた人類の最終ステージは、“宇宙に一人彷徨う巨大な赤ん坊”。
そんな姿にさせられてどーしろってんでしょう。地球には2度と戻れそうにも無いし。
ラストシーンはその赤ん坊が映画を観ているこちら側のどーしよーもない人類をじっと見つめて終わります。
なんて激烈な皮肉。なんて壮大なホラ話。
キューブリック監督の1人ほくそ笑む姿が目に浮かんでくるようです。
いや、キューブリック監督だと「なんなんすか、これ?」と救いを求める観客に背を向けて小難しそうな学術書を読んで知らんぷりするのかも。

[カチンコ]40年経った今でも映像が古びていないのが凄い。
相当金掛かってんだろうなぁというのは随所で分かりますが、失礼ながら出演者がメジャーな人ではない所も古さを感じさせない要素かと思います。
本作以外のメジャーな作品では見かけない俳優さんですから、年齢を重ねた姿を見ることがないので本作を観ても「ああ、こんなに若かったんだ。」という感慨が湧いてこない。

[カチンコ]『2001年宇宙の旅』と言えばその音楽ですが、恐らく宇宙を想定して書かれていない(宇宙も含まれているのかもしれませんが)クラシック音楽に宇宙を感じて、完全に当てはめてしまうキューブリック監督のセンスには感嘆するばかりです。
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