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カズキ・リターン [カズキ]

限界だった。いや、限界はとうに過ぎていた。

それはアーユルヴェーダにおけるネトラバスティに近い状態と言っても過言ではないだろう。1ミリでも体を動かせば涙がこぼれ落ちる事は確実だった。

しかしそれ以前に首が限界だった。肩も腰も太ももも、膝も脛も踵まで。
何せ小一時間は天井を見つめ続けていたのだから。

とうに過ぎた限界をさらに超え遂には膝から崩れ落ちたが、決して天井からは目を離さなかった。

衝撃で涙がキラキラと宙に舞いこぼれ落ちた。

そうしてカズキは泣いた。ワァンワァンと声を上げて。



泣いた。泣いて泣いて泣き続けた。

涙が枯れ果てるまで泣いたその後にやってきたのは清々しさではなく虚無だった。

カズキの周囲にまとわりつく暗闇はさらに色濃さを増し、もう太陽の光さえ届かないほどの深宇宙の暗闇だった。

カズキの中に入り込んだ虚無がその暗闇と溶け合い、自分はこのまま消えてしまうのではないかと思えた。

その時目の前に浮かんだのはあの子の笑顔だった。



あの子に出会った頃のカズキは荒れていた。

仕事、家族、人間関係、あれほどまでに情熱を傾けていたゴルフまで。全てがどうでもよくなっていた。

ストイックなまでに禁じていた酒と女とギャンブルに手を出し自堕落に毎日をやり過ごしていた。

そんな時に出会ったのがカラオケスナックで働くみよ子ちゃんだった。

決して美人とは言えないが屈託のない笑顔に荒れ果てた心が癒されてゆくのをカズキは感じ取っていた。

みよ子ちゃんの笑顔の裏側に隠された秘密には気付かぬまま。



みよ子ちゃんの特技は腹話術だった。それは見事な腹話術だった。

カズキはことのほか感心し、「テレビ局のプロデューサーを紹介するからテレビに出てみなよ。」と軽口を叩いたが、みよ子ちゃんはその事には乗り気ではなかった。

自分が芸能界でそれなりの地位にいる事をアピールしたいカズキはスナックに行く度にその事を口にしたが、みよ子ちゃんはいつも笑顔ではぐらかすのだった。

ある日本当にプロデューサーを連れてきたカズキにみよ子ちゃんはいつもの笑顔ではなく困った顔を見せ、カズキにだけ真相を打ち明けるのだった。

みよ子ちゃんは重い病を抱えていた。

人面瘡と言う奇病であった。傷口に人面が現れやがてその人面が意思を持つという病である。

みよ子ちゃんのおへその左側にあったそれは本当に人間の顔だった。目を開ける事は出来なかったがそれが幼な子の寝顔のように思えた。
カズキが「こんにちは」と呼び掛けると少し恥ずかしげに「コンニチハ」と可愛らしい声で応えるのだった。

みよ子ちゃんはその子の事を今日子と呼びとても愛おしんでいた。
「だって、今日子は一生懸命生きようとしてるんだもん。」と、涙ぐみながらいつもの笑顔を見せるのだった。



みよ子ちゃんと今日子ちゃんに生きてゆく気力を分けてもらったカズキだったが、仕事への情熱は戻らないままだった。

一時とは言え酒と女とギャンブルに溺れた自分が癒しの存在などと他人様に思われる事がどうしても許せず、週末の行楽地の天気の予想にも身が入らないのだった。

そんな時に出会ったのがあの歌だった。

そのレコーディングにも最初は乗り気ではなかったのだが、何度も歌っているうちに心が軽くなってゆく気がした。





カズキの暗闇は続いていた。

太陽の輝きも星々の煌めきもまるで存在しない暗闇。その暗闇に溶けてゆく自分。

みよ子ちゃんの笑顔も今はもう薄っすらとしか思い出せない。



そんな時にあの歌のメロディがぼんやりと浮かんできた。

必死にメロディを思い出し声にならない声で口ずさむと一瞬目の前で何かが光った様な気がした。

何度も何度も口ずさみ次第に声がはっきりと出るようになると、光も次第に大きく明るくなっていった。

何度も何度も口ずさみ、

そしてカズキは光に包まれた。



カズキはあの見慣れたリビングの天井を見つめていた。

夫婦喧嘩はまだ続いている。完全無視もされたままだ。

だがもうそんな事はどうでもよかった。今はただ、みよ子ちゃんと今日子ちゃんに会いたかった。

外に出ると陽の光がとても眩しかった。

カズキはカラオケスナックへと向かって歩き出した。

あの歌を口ずさみながら。




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