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『宮本武蔵 二刀流開眼』『宮本武蔵 一乗寺の決斗』 [映画]

『宮本武蔵 二刀流開眼』を観た。1963年、日本、1時間44分。
修行を続ける武蔵は剣術家であり兵法家の柳生石舟斎宗厳(やぎゅうせきしゅうさいむねよし)から知見を得ようと奈良の柳生町へと向かう。一方京都の吉岡道場の当主清十郎は武蔵との決闘に向けて準備を進めていた。その吉岡道場に一人の剣士佐々木小次郎が客人として迎え入れられる。

前作のラストシーンから始まるので聞き取れなかった武蔵の台詞を聞く事が出来た。無法者ではある野武士達を惨殺しておきながらお経一つで正当化させる坊主。しかも武蔵は自分がその片棒を担がされていた事を知る。そんな坊主どもの行いは武士として剣の道に生きる武蔵にとって卑怯であり欺瞞でもあると。そういう憤りが込められた台詞だった。

本作で佐々木小次郎が登場。演じるのは高倉健さん。健さんの演じる役柄のイメージは寡黙で自分の気持ちは押し殺すといった所だけど本作で演じる佐々木小次郎は饒舌ではないけど自分が思った事ははっきりと口に出すタイプでそれが新鮮だった。健さんも沢山の映画に出ているから自分がまだ見た事の無いタイプの役柄も演じているのかもしれない。
劇中で佐々木小次郎は前髪を下ろしているので「前髪」と呼ばれる。元服(15歳)を過ぎてそういう髪型をしているので蔑称としてなのだろうけど、剣の腕前はめっぽう強いと噂されてその名を聞くだけでも恐れられる。髪型を含めた出で立ちとのギャップは多分意図的にしているのかもしれない。そういう自己プロデュースが出来る当時の最先端、異端とも言えるキャラクター。
武蔵が剣の道を究めようとする求道者とすると小次郎は剣の腕前で武家社会をのし上がっていこうとする野心家という事でも有るのだろう。そして吉岡清十郎は室町時代から続く名門の家に生まれたために剣の道で生きていくしかない運命を背負っている。
三者三様の剣の道が有り、その道がある時に交差し剣を交えなければならない相手としてお互いの生き残りをかける。

武蔵と恋人未満なお通さんと武蔵の一番弟子の城太郎がお互いに武蔵と知り合いという事は知らぬまま不思議な縁で行動を共にしている。この二人が出てくると場が和むのでいい。

サブタイトルに二刀流開眼と有るが武蔵が急場で咄嗟に二刀流の構えをしたらあっさり出来ちゃった。みたいな感じ。
開眼の読みは「かいがん」だと思っていたが「かいげん」が正しいという事。「かいがん」は元々誤った読み方だけど今ではそれでも通じなくもないという事。



『宮本武蔵 一乗寺の決闘』を観た。1964年、日本、2時間8分。
吉岡道場一門は名門の面子をかけて武蔵をなりふり構わず討ち取ろうと躍起になる。二者の間に入った佐々木小次郎は正式な決闘とする事を提案。武蔵一人対吉岡道場門弟七十人余りとの戦いを前に武蔵はお通と再会する。

全五部作の四作目としてのドラマ、武蔵が一作目の時の様なけだものモードに入ってしまう。そして武蔵のそばにはあの時の様に沢庵和尚はいなくて別の見ず知らずの坊主にその行いをただ咎められる。
武蔵の方にも一理は有るが武蔵のけだものモードは大勢の命を奪ってしまうのでよろしくない。時代が違ったら戦場で名を馳せる事になったのだろうけど。
お通さんとの再会が武蔵をどんな事をしても生き残る事へ執着させたのだろうか。それじゃあお通さんのせいみたいで可哀想。お通さんはお通さんで武蔵を想うあまりに病んじゃってるし。
ここからどうやって武蔵はまた人に戻り成長して、そして佐々木小次郎と巌流島で闘うのか。完結へ向けての道筋はしっかりと出来上がっている。

武蔵が求めているのはただ剣術の強さだけではなく、いかにして勝つかでそのために兵法を重んじている。巌流島でよく知られているが決闘の時刻には大体遅れて相手を焦らすのは常套手段だったらしい。
本作の決闘では大勢の相手に対して地形を利用する。それは勝つというより生き残るための手段だったように思われる。この決闘の場合武蔵は生き残る事、それが吉岡道場を相手に勝つ事と位置付けていたのかも。

佐藤慶さんが吉岡道場の門弟の一人として出演。他の出演者の方達も声が渋くてカッコいいけど佐藤慶さんの低音の響きは他の人には無い感じ。


丸の内TOEI 内田吐夢監督作品『宮本武蔵』 中村錦之助=萬屋錦之介 生誕90周年記念特集上映にて。
全5部作を3週間にわたって上映の2週目。シリーズ3作目と4作目。
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