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『宮本武蔵 巌流島の決斗』 [映画]

『宮本武蔵 巌流島の決斗』を観た。1965年、日本、2時間1分。
浪人のままの武蔵に対して仕官した小次郎は当然俺の方が強いと周囲にも分からせるために武蔵に殺るか殺られるかの決闘を挑む。

全五部作の完結編。なので冒頭に四作目までのダイジェストが有ったがとても分かりやすかった。

前作でけだものモードに入ってしまった武蔵は土に触れる事で人の心を取り戻した。

武蔵と小次郎が巌流島、正式な名称は船島(ふなしま)で闘ったという事は知っていたけどどういったいきさつで闘う事になったのかは知らなかった。もっと因縁めいた感じなのかと予想していたが小次郎のプライドと見栄が決闘へと向かわせたと本作ではなっていた。
闘う理由はたったそれだけの事と、現代の感覚で観ればそう思えてしまう。多分この映画が作られた1960年代でもそう思えたのではないか。原作が書かれた1930年代ではどうだったのか?
小次郎との死闘が終わった後の武蔵に残ったのは虚無感。それは武士の社会に対しても虚しかったのだろう。もはや武士が武士である理由は武士を頂点とする権力構造を構成するためだけであり、その権力構造が無くなってしまえば武士が存在する意味も消滅する。現に今はもういない。いるのは侍なんとかと呼ばれる人たちだけど侍でもなんでもない。また権力の頂点にいる武士同士の間でも権力争いは起きていて、武蔵はそんな事のために武士として剣の道を究めようとしていたわけでは恐らく無く、剣の道に生きようと決めたあの瞬間の清々しさは今となっては消え去ってしまった。
土に触れ人に還った武蔵だったが、武士社会に必要なのは気高い人の心ではなかったと。

ただ、この映画ではそうなっているけど1600年代の当時はどうだったのだろう?武士が自分が武士として存在する理由とか考えなかっただろうし、どっちが強いかは殺し合いで決めるのが当然と考えていたのかもしれないし。
現在に置き換えて考えてみれば殺人は凶悪犯罪で、SNSなどにおける誹謗中傷はモラルの欠如やマナー違反くらいの感覚。数十年後数百年後そういった誰かを誹謗中傷をする事が凶悪犯罪と定められて完全に浸透している社会になっていてその時代の人が過去を顧みたらそういう事をしている輩はとんでもない野蛮人という事になる。

丸の内TOEI 内田吐夢監督作品『宮本武蔵』 中村錦之助=萬屋錦之介 生誕90周年記念特集上映にて。
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